院長の紹介

院長:大庭 玲子プロフィール

経歴について

日本女子体育短期大学 体育科卒(舞踊専攻、中学校教諭免許取得)
昭和60年に姿勢保健均整専門学校を卒業後、20年に渡り講師として従事し助教授となる。
現在は、姿勢保健均整師(ボディデザイナー)として十条均整院にて患者さんの治療にあたる。
また後世に技術や知識を繋げる活動も継続している。

ボディーデザイナー(姿勢保健均整師)とは

その人の姿勢を見て正しい姿勢にすることを前提に、体の歪みを目から観察(立つ姿勢から)背骨、椎骨1つ1つを手でチェックする、筋肉の状態をチェックすることで変位している椎骨を戻し、筋肉に弾力を復活させその人本来の体にすることにより様々な負担が取れ、見た目の体型も良くなり美的にも良く、健康をとり戻す姿勢保健均整術を施します。

姿勢保健均整師になった背景

長文となりますが、わたしが姿勢保健均整術に興味を持ち、施術の素晴らしさと患者さんの治療にあたる喜びの背景となる自伝的ストーリーを書かせていただきます。

腰に負ったケガがすべてのはじまり

学生の頃に腰の打撲から腰に激痛が起こり、月日が経つうちに両足にも痛みが出てしまい、そこで、大学病院に行くものの医師から今の医学では、痛みは計れないので、足には装具、腰にはコルセットをはめて過ごすように言われ、学校は休学か退学と言われました。
その後行った幾つかの大学病院でも同じようなことを言われましたが何とか単位を取り卒業しましたものの、その後、数カ月で寝たきりになり、この頃には首から下、全てがズキズキとガ―と強い痛みがひっきりなしに起きている間中続き、一時は人生に絶望して自殺を考え、家族に迷惑のかからない自殺の方法を見つけようしてしまったほどに。体が楽になった今となっては思い出せない部分も多いのですが、本当に心と体は1つだと思います。

療養生活と治療法を探す日々

約2年間の自宅療養でした。1年を過ぎた頃数分間痛みが消える時があり、強い痛みがあるものの家の階段を降りる際には両膝にバレーボールで使う座布団の様なサポーターを付けて膝を使いました。
そして2階から階下に降りると、まず手も指の先まで痛いので、両手をテーブルにおき椅子をだして その上に両足をのせて伸ばすという毎日でした。
それから1年半くらい過ぎた頃、痛みは強いものの足を引きずって歩ける様になりました。その時、母が「気晴らしに美容院で髪の毛でも洗ってきたら」と言ってくれました。
そこで私は美容院で何日間に一度シャンプーをしてもらう様になりました。その2年間の療養期間は藁をも掴む思いで、これが良いと言われる健康食品を色々と試したり、ある整体が良いと聞けば通い、その当時良くなりたいとゆう一心でした。
そうしている内に四六時中あった痛みが数分、時には数十分無くなるようになりました。本当に心と体は一心同体と言われるように、この二年間に心もダウンしていたので、精神力をアップさせようと考えました。
そして、幾つかの断食道場のパンフレットを送ってもらい、その中で選んだのが、今は有名なトロッコ電車の終点駅でもある京都の亀岡と言う所にある断食道場は各個人の部屋があり、プライベートが守れ、尚且つその当時有名だった西勝造先生の西式体操※を行う西式断食道場で、12日間の水だけしか飲まない本断食をしました。
※西式健康体操とは・・・
金魚体操(体を頭から足先まで金魚が泳ぐ様に動く動作)、毛管運動(仰向けに寝て、両足、両腕を上げ震わす運動)、合掌合蹠運動(仰向けに寝て、両手を合わせ、両足裏を合わせ上下に動かす)、背腹運動(背と腹部を動かす【内臓を動かす】運動)等、体の理に叶う運動です。

大学病院勤務での経験、姿勢保健均整術との出会い

その後20代は、ずっと健康を求め、自然食にしたり、これが良いと言われる事は、藁をも掴む思いで色々としてきました。2年間の療養後、体は痛いものの、4年半程大学病院で働きこの間も今思いますと、今の仕事をする上でも良い経験となりました。
大学病院で働いて、4年を過ぎた頃、週刊誌に三島にあるヨガ道場の一日の生活を見たときに、そろそろ体力を鍛えて健康体操の指導をしたいと思っていた私にヨガ道場の一日は私にとって、これだ!と思えるものでした。
そこでは玄米菜食の食事で、尚且つ体の歪みを正したりする修正体操を体調の悪い人達に指導したり、苦手な事をしたり、動じない心を養う事を身につける訓練するようなところだったのでそこの先生に、大庭は何になりたいのかと尋ねられた時に健康体操の指導をしたいと話すと、この道場に残り修練するように言われ、受講生の10日間の間にとても良いものを受けとれたので三島(1年)と支部である下北沢(半年)で自ら体験体得し、いつも悩みがちな心を、川の流の音を聞き、意識をそちらに向ける瞑想や音楽瞑想、黒点瞑想(一番難しい)等を経て、今は精神的な事に関しては、半分は楽になり、悩みを流せるようにもなりました。
そのヨガ道場で今の仕事に繋がる姿勢保健均整専門学校を知りその道場を後にし、専門学校に入学し、そこで卒業後、校長先生からの学校に残って後輩の指導をと言っていただいた言葉で学校の教師となり、助手から助教授までの間の20年近くを学校で指導をしていました。
同時に十条で、十条均整院を開業し今に至り、施術をしています。

俗に言われる寝違いの痛みから学んだこと

26歳の時にお風呂からあがり、髪の毛を右前方にひっぱりながら拭いていた時に突然する酷い痛みと同時に上半身を動かすことが出来なくなり、翌日には家族に救急車で大学病院に入院させられ、そこでは起きあがろうとすると鋭い痛みが起こり看護師さんにベットを起こしてもらわないと入院中は自力では起きられず、食事をするときに噛むという動作でも背中に激痛が起こっていました。
今思うと、俗にいう寝違いのひどい状態です。そこでの治療は主に首の牽引でした。ところが毎日牽引される程、症状はどんどん悪くなり、痛みが増し更に動けなくなりました。
今はその理由も良く解かります。私は頭部以外の全身の痛みを何年もの間経験し今は自分の体を通し、均整の学校での知識や現代医学のその他の勉強を30年以上の施術を通して、今はその原因も解かります。

たくさんの痛みの症状を体験して思うこと

私は今も体の何処かに痛みが出ますが、そのお陰で沢山の喜びも感じる事が出来ます。
何に喜びを感じるかといいますと例えば皆さんが当たり前と思っている事だと思いますが、歩ける喜びです。そして、座れる喜びです。
前にお話しした、腰を打撲して全身激痛で通った頃の大学病院では、行った大学病院のどの先生も足には装具を付け、腰にはコルセットをして一生過ごす様にと言われ、その時は私はもう歩けないのだろうかと思っていました。
それは以前の打撲で全身の椎骨に症状がでた事に加わり運動においては過ぎたるは及ばず、ある時、痛みがあっても歩けるようになった時に、その当時、流行りだした運動を習いに行き、そこで足の付け根(股関節)を圧迫する形をとったまま、我慢するように言われ、その当時私も若く真面目を字に書いた性格だったので、そのままずっと耐えていると右足がしびれ、教室が終わっても麻痺したままで何とか駅のホームを歩いていると 感覚のない右足首がグニャッとなり、その上に全体重が乗りバキッと音がし、翌日病院に行くと造影剤を入れ検査し足の付け根から指先まで全く感じず、そこでもしかしたら”デルマトーム”かも知れないと言われ足の指先から股関節まで石膏のギブスが巻かれました。
“デルマトーム”とは、股関節から出ている神経の束が遮断され麻痺がおこる事で時には麻痺が治らず足の感覚が無くなって、右足が機能しない事になります。
ありがたいことに、その右足は3カ月後、指先が動き”デルマトーム”ではなかったと先生に言われ、ホッとし、徐々に麻痺は回復していきました。
※デルマトーム=末梢神経の神経根障害

弱った右足は20代の頃から今に至るまで数年に一度は骨折し、ひどい時には4年連続で毎年骨折すると言う事もありました。
一生骨折しない人も多いのに私はこれからどの位骨折するのだろうと思う程です(笑)

心と体は一心同体

私が大学病院に勤めた頃まだまだ体のあらゆる部位の痛みがある中、どの職場でもあるようにその当時、各外来で有名な強い看護師さんが、私と同じ外来にいました。その当時は整形外来に所属していた私は若さゆえの弱さで心労から胃潰瘍と十二指腸潰瘍になりまた初めての組織体系のこともあり、今でしたら年の功で流せる事も若さゆえに心にズサズサと入り過食症にもなりました。
その経験からも、心の大切さと心と体は影響する事が解かりカウンセラーになりたいと病院に勤めながら講習会に2年程通ったこともありました。

ヨガ道場との出会いが均整へ

病院に勤め4年程たった頃、ある本で三島にあるヨガ道場の一日が紹介されていました。
そこでの生活は朝味噌汁1杯、お昼は玄米菜食、夜は蕎麦、そして体の勉強やお花、お茶、武術、アサナヨガ、強化法などなど厳しい一日で私にとってこれだと思い、その半年後、病院を辞め三島へ行き10日間受講生をした時に体を鍛えて健康体操の指導をしたいと行ったところ健康体操ではなく三島で研修生をするように言われましたが、その当時のわたしの体は正座をして講義を聞けば足にまだ激痛が走り、数カ月痛み続けるという状態でしたので道場の先生に体が無理なので、三島には残れないと伝えるとそれならは東京の下北沢に支部があるので、特別に研修生をするように言われました。

私にとって10日間の受講経験は心身共に素晴らしいものだったので、「はい」と返事をしましたが、父は、東京に家があるのに、なぜ下北沢へ行くのかと叱られたものの、私の決心は固く、半年間、下北沢にいた後、三島へ一年間行き、研修生をし(自分の思っている自分から人は変われます)三島に行って、半年後に外部指導の責任を任されました。(道場直営の教室やカルチャー等の一般指導)
これも私にとっては良い経験でした。なぜなら、私は一番手が苦手で、二番手があっていると思ったので 外部の指導員の総括責任者になることは自分にとって新たな経験でしたが、これがよい経験となり、将来自分で施術院を開業することになったのです。

この三島のヨガ道場で今の仕事に繋がる姿勢保健均整専門学校を知り、常に健康を求めていた私はその学校に入り学び、そこで教員になり、後輩の指導をしながら開業しました。(今までの道が将来の道。何事も無駄にならない)
今思うと、私が19歳で怪我をし、藁をもつかむ思いで断食し、その後、大学病院に勤め、そこで雑誌から知ったヨガ道場の生活へさらに姿勢保健均整専門学校との出会いから学んできた事はこの道に繰る為のモノだとわかり、授業で学生を指導しているとき、「皆が今まで経験してきた事やこれから経験することがまだわからない将来の何かに向かっているものなので、何事も無駄ではないし、今良くないと思っていることでも、きっと意味があるものだと思います。」 と伝えることができました。(体は正直です。良いことをすれば今より必ず良くなります)

身体は絶望的と思える症状でも、前向きに行動することで今の辛い状況は違ってきます。それは、人それぞれの時間の経過と積極な身体への良いことの呼びかけで必ず変化していきます。
そして一生このまま同じということはないと思います。

最後に – 感謝の毎日

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
一生歩けないといわれた私が歩けるようにあり、9年掛かりましたが正座もできるようになったこと。
普通という言葉がどんなに素晴らしいかを実感し、歩けることに喜びを感じ、足を折ってもいつかケガは治り再び歩けることに今は只々感謝です。この思いを日々患者さんの治療へと還元するよう努めてまいります。